つまらなさができるまで

つまらない本というのが存在する。当たり前のことのように思えるかもしれないが、かなり不可解なことである。
本というのは何人もの人間、しかも本を作れる立場の人間が「この内容を本にするしかないね。」と強い決意をしなくては生まれないはずである。それなのに、誰が読んでもつまらない本というのが生まれてきてしまう。いったいどういうことなのだろう。もしかするとそこには出版業界の深い闇が潜んでいるのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
つまらないというのも、「ほんとうはおもしろい本を作ろうと思ったのに力がないばかりにつまらなくなってしまって」というのならまだ納得できる。その努力に免じて本を出してあげようという奇特な人も出てくるだろう。しかし、話はそんなに簡単ではない。たとえばある種の四コマ漫画のように、初めっからある程度のつまらなさを意図して作ったような本が存在するのである。内容にはかまわず、とりあえず「本」という物体をつくらないことにはどうしようもない人たちというのがきっと存在しているのだろう。
そんな本は当然読むためのものではなく消費されるためのものだ。もし間違って読んでしまった場合そこから得るのは負の符号のついた時間だけ、という取り返しのつかないことになってしまう。
しかし、そんな本が読まれいるような痕跡をよく見る。一体それらは何のために読まれたのか、いや、目的なんて何もなく読まれたのだろう。しかし、目的もなく読める本というのはばかばかしい本だ。そして、たいていのつまらない本はばかばかしくもないのである。なんだかよくわからなくなってきた。