耳ざわり

「耳ざわりがいい」という表現については、間違った日本語であるという指摘がよくなされるし、この表現を耳にした途端「耳障りだ」などと悪趣味な拒否反応を示す人も多い。しかし、果して頭ごなしに間違った表現であると決めつけてしまってよいのだろうか。

「耳ざわりがよい」が使用される文脈で、他の表現に置き換えてみると、
・あの政策は耳ざわりはよいが中身が伴っていない。
この場合「聞こえがいい」と置き換えることができそうである。
・そのスピーカーから流れる音色は耳ざわりがいい。
この場合は「聴き心地がよい」と置き換えられるだろう。


しかし、置き換えてしまうと失われるニュアンスもあるような気がする。つまり言葉から微妙なニュアンスを感じることができるくらいに、頻繁に出会う機会のある表現だということができるかもしれない。

また古いものでは鎌倉時代に用例があったり、文豪を持ち出すならば永井荷風がその日記「断腸亭日乗」においてこの表現を用いているようだ。

正しい日本語とは何か。これは答えのない問題だろうが、少なくとも多様な日本語に触れることなく、「正しい日本語」的な本を読んで身につけた知識のみを振りかざして議論すべきものではないはずである。